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動悸・めまい・息切れ [ランニング]

ぽかぽか陽気の今日この頃、朝のジョグが気持ちイイです。


しかし、去年から”動悸”がするようになり、今年は”めまい”と”息切れ”を感じるようになりました(すでに歩く速さと変わりない、「ヨタヨタジョグ」ですが)。


まるで、かの名薬?”救心”の宣伝文句そのままですね。

座ってジッとしてても、動悸・めまいはするようになった。


まあ、私の娑婆暮らしもそろそろ『上がり』なんでしょう。

OKです。





ジョグ中の今日の一首・・・・



千葉の里   落ち葉紅葉  ポカポカと

走るジジイも  先は短し



お粗末でした。


私のようなジジィが、トットと死ぬことは良い事です。

ババァという生き物は、年取ってもそれなりに世の為、人の役に立つものです。

クソジジィは、サッサと退場するに限ります。


それこそが、世の中が平和で上手く廻っている証左です。

例えば、先の大戦のように多数の若者が戦死したり、もっと遡れば、江戸時代の飢饉、赤子や子供たちが飢え死にしたり、クチべらしされたり、売られたりした。

世の中が危うくなるとそうなります。


言ってみれば、我ら団塊世代なんてのが現れたのも、元はと云えば戦争のせいでしょう。


ジジィらの先が短いのは自然の摂理で、私は喜ばしい事だと思うのです。

いつまでも生きていては、後がつかえて周りが迷惑するでしょう。



生き方はひと夫々ですが、私は自然のままでいい、天寿を全うすれば善しとします。



今の「コロナ騒ぎ」なんてのも、いっときの事でしょうし。









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"死生観"を問うコロナ禍 [自然]


今ある『コロナ禍』で、死生観が問われているように思います。



“極端”という言い方では語弊があると(個人的には)考えますが、感染拡大当初の『スウェーデン方式』。

マスクは個人の自由、ソーシャルディスタンスも移動も推奨はするが、強制も罰則も無し。

80歳以上は、(コロナに限らず以前から)延命処置はしない。

(・・・以上、筆者の記憶によればですが)


しかも国民は、不満どころか自国の方針に満足しているという。

かの国は50年以上前から、”社会保障の先進国”のモデル的な存在です。




それからほぼ半年が経ちました。

国内(=スウェーデン)は勿論、他国からも(現在は)別段これといった非難はないようです。




そして昨日(Nov.82020)、スイスでCovid19の爆発的?感染が拡大したと報道された。

スイス政府関係者は、医療の崩壊を避けるため85歳以上の発症者の治療を控たい、とコメントしました。

スイスメディアは、共に85歳以上のある夫婦へのインタビューを報道しました。

老夫婦曰く『私たちは、感染・発症したとしたら、生きる可能性があるのなら治療を受けたい』

これが拡散し、先の指針は取り消されるようです。


以上は、日本に住み、メディア報道だけを拠りどころとしている、半ボケ老人である私の認識であって、現地の実際とは乖離がある可能性はあります。



しかし・・・・

もし私が80、或いは85歳過ぎまで生きたとして、”流行り病”に冒されたとします。

であれば、それこそ命に懸けて言えますが、延命処置や治療など無用です。

それは、子供や女性、働き盛りの人々を優先して欲しい、という事だけではありません。


もし私が、80過ぎまで生きられたとしたら、もうそれで充分です。


天寿でしょう。

それが私個人の死生観です。

世の中の役に立てなくなって、かえって迷惑を掛けてまで生きたくはありません。

私が病に倒れたらなら、それは老いて死期が近づいたと理解します。




今回のコロナウィルスのバカ騒ぎは、人々の死生観を問う一面を持っているように思います。



私ごときには理解できませんが、始皇帝のように、何があっても出来るだけ長生きしたいと考える人もいるようです。


その思いは謹んで尊重いたしますが、『長生き』は何の為なのでしょうか。




人類は何十万年も、ウィルスや細菌、その他諸々の汚染物質を他の人と共有し、それらを自らの糧として利用し、生まれては死に、打ち勝って生き続けてきました。









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白鵬と鶴竜が辞めない理由 [大相撲]

その昔、江戸中期までは、『横綱』という地位は無かったと聞きます。

それ以前は、”大関”が力士の最高位だった。

大関と横綱の違いの一番大きな違いは、横綱には降格がないという事です。

今話題の米国の”最高裁判事”ではありませんが、終身制の地位でした。




何故なら、横綱とは”神様”と同じ、人間の依り代だからです。



神社や御神木と同様に、その身に太綱を締めることが許されるのです。



神の領域の人であるから、綱を締め、神聖な土俵を占め、五穀豊穣、今で云えば、人々の安寧を願うのも横綱の務めです。

だから、降格と云うのはあり得なかったようです。




私はテレビ桟敷の一相撲ファンですが、半世紀以上大相撲を見てきました。

しかし、白鵬・鶴竜ほど往生際の悪い横綱は、今まで見たことがありません。

人気があった故に、怪我で何場所も休場しながら、結局良いところなく去った稀勢の里が、悪い先鞭をつけてしまったような気もします。



現在の相撲協会ブレーンも(横綱という看板を失うのが怖いのか)、引退勧告さえしません。

相撲はスポーツではなく、日本の国技と云うのであれば、何よりも品格を重んじ、けじめや引き際を大切にしてほしいものです。



我々相撲ファンは、力士の取り組みだけでなく、その生きざまに感動し賞賛の拍手を送るものです。

『力士になって出世すれば、高収入&将来補償』だから、という勝ち負け至上主義や、なりふり構わぬ『出稼ぎ』相撲取りは、あまり見たくはありません。


個人的には、”横綱”という地位も、降格有りにするか、または横綱の地位そのものを無くすことも、検討しては如何かと思います。






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